たった7年で廃線になり、電鉄であるのに電車ではなくガソリンカーが走った善光寺白馬電鉄の廃線跡の近くに2回住んだことがある。「妻科」と「山王」。2000年正月、私が住んだことのある2 つの場所に行ってみた。

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まず「妻科」、それまで親戚の家に間借りしていたが、弟が生まれて手狭になり一軒家に引越、それから幼稚園に行き始めた頃まで住んでいた。昔住んでいた場所の目当てはすぐわかった。あの小坂家の邸宅の近くだったから。しかしあの当時大邸宅と思っていたのに行ってみたらそれほど大きくはなかった。卒業した小学校に久しぶりに行ってみると「あれっ、こんなに小さな校庭だったっけ」という感じと同じ、身体が小さかったから。

そこから少し行くと小さな浅い川があった。私の額の左に残る傷は、薪の上で遊んでいて、川に頭から落ちてガラスで切ったもの。目じゃなくて良かった。周りに川はないからこの川だろう。記憶ではもっと深い大きな川だと思っていたのだけど……。コンクリートづくりになっているのは時代の流れ。


頭から落ちて傷をつくった川。矢印の辺に住んでいたはず。


この川にかかる橋でも遊んだけど、道が狭い。ここも記憶ではもっと広い。当時は水道がなく、道の真ん中にポンプがあって家の水瓶まで運んだのだが、面影は全くないし狭い道になっている。当たり前だけど。

そして「妻科駅跡」に向かう。当時、まだホームに待合室、改札口が残っていてよく遊んだ。記憶どおりに道はあったが狭くて近い。当時は広い道で、畑の中を走って時間がかかったと思っていたがすぐ着いた。遊んだ待合室など残っているわけはなく道路と住宅になっていた。


「妻科駅」があったのは絶対にこの位置。


「妻科駅」の手前にあった川がこれ。進むと「裾花口」、戻ると「南長野」になる。

幼稚園に行く年齢では「善白」のことなぞ知るわけがない。ただ、ホームの上の小さな待合室には「妻科」と書かれていたのは確か。その後、私は東京に出ていたが、父親が仕事の関係で「山王」の近くに引っ越してきた。


右は県庁、「妻科」からここに出る。


上の写真の反対側、直進すると「山王」に着く。

県庁と「山王」の市営プールの中間に家はあって、堤になっていた「善白」廃線跡の道路を歩いた。夏休みに帰省して山王の市営プールに行くとき、廃線跡の道路を進むと右下にプールが見えた。水泳パンツをはいたままで行けるほど近かった。その堤は壊されていて平地に、住んでいた家も大きな建物の一角になっていて面影は全くない。

市営プールも移転、跡地は公園になっている。もっと広い敷地だったと思っていたが……。小学生当時、まだ学校にプールがなくてここによく来た。プールの前に氷屋さんがあって、帰りにアイスボンボン(風船に水を入れて凍らせたもの)を買うのが楽しみだった。不衛生だからやめなさいと母親には止められていたが、家に帰るまでに食べてしまえばわからない。その氷屋の横に橋脚だけが残っていて、昔は橋がかかっていたのだろうということは幼心にも理解できた。中学の時は水泳部に入っていて大会でよく来たが、まだ「善白」の跡であることは知らなかったのである。

「山王」の近くに家があるときは、さすがにこの道路は「善光寺白馬電鉄」の跡であり通称「ぜんぱく」であることは知っていた。橋脚も「善白」の跡であることも。その橋脚跡は公園の隅にそれらしき残骸があるだけで、後は当時の面影は皆無。


左の公園に市営プールがあった。石垣が橋脚の跡

ここから「南長野」に向かう「善白」の跡は所々道路になって残っている。しなの鉄道と長野新幹線と並ぶ近くに「善光寺白馬電鉄・西倉庫」の看板があって、止まっているトラックの横にも「善光寺白馬電鉄」の文字とマークがあった。

 
「善光寺白馬電鉄」の文字が書いてあった倉庫とトラック。

「善白」は国道18号下をクロス。オリンピックで道路が拡張されたので、道路下の「善白」跡のトンネルはなくなっているだろうと思っていったらまだ残っていた。どうやら反対側に道路が拡張されたようで、片方だけ残っていてシャッターが付いているのは倉庫に使っているのだろう。


右の閉ざされているトンネルが「善白」の跡。反対側にはない。

このトンネルをくぐって長野駅の手前が「南長野」があったところ。今は運送会社になっているが「善光寺白馬電鉄」の名前が残る写真を以下に掲載。正月休みで営業しておらず撮影するのにちょうど良かった。普通だと車の出入りが激しくて無理だったかもしれない。


倉庫に「善白」の文字。


「善白整備工場」と書かれてあった。

もし戦時下の不要不急線とならずに、最終目的地である白馬まで開通していたら長野オリンピックで白馬会場とのピストン輸送に使われたと思われるが、ほとんど川沿いで山間を走る路線であったので、戦争がなくとも生き残れたかどうかわからない鉄道である。


善光寺白馬電鉄
大正 8年  長北鉄道として計画
昭和 5年  善光寺白馬電鉄株式会社として建設着工
昭和11年  南長野−善光寺温泉東口−善光寺温泉、営業開始
昭和17年  善光寺温泉−裾花口、営業開始
昭和19年  南長野−裾花口の7.4キロ全区間営業停止