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●うんすんカルタ
うんすんカルタは現物の複製が1枚あるはずなのだが、整理と管理が悪くて見あたらない。季刊「銀花」に載っていたもので、とりあえず代用。実は銀花でうんすんカルタ保存会が人吉にあることを知ったのだ。



複製の1枚は、京都の「田村将軍堂」がうんすんカルタの製造元であると「大石天狗堂」で聞き、寄ったもの。遠くからよく来てくれたと麦茶を出していただいた。
うんすんカルタは製造されておらず、社宝として残っている桐の箱の現物を見せていただく。そしてこれならと、人吉保存会に頼まれて複写して特別に作った中の1枚を譲ってくれた。

◆季刊「銀花」1973春◆第13号より
天正かるたは、その名のとおり天正時代に日本で舶来かるたをまねてつくったもので、日本のかるたの元祖といえよう。天正かるたを変化させたのが、75枚1組のうんすんかるたである。
うんはポルトガル語で1、すんは最高、最上の意らしい。現在の「うんともすんとも言わない」と言うが、それは、今まで盛んにうん、すんと言って勝負していたのが、ばったりとだえて何も言わなくなった、ということなのである。
江戸幕府は幾度も禁止令を出し、中でも寛政の改革の推進者、松平定信によって、うんすんは厳しく禁止され、それ以来、九州人吉を除き、文字どおりうんともすんとも言わなくなった。

この「銀花」には日本のかるたがいろいろ出ていて、「大石天狗堂」、「田村将軍堂」、「山城屋」とまわっている。さすがに、当時電子ゲームやトランプを製造していた「任天堂」だけは行ってない。
いろいろ残っていたメモから判断すると「明延」と「下津井」に行く前に“かるた”巡りをしたようだ。だから昭和47年10月末。


 

●道才かるた
京都らしい狭い路地を入ったところに道才かるたの製造元「山城屋」はあった。「大石天狗堂」「田村将軍堂」は事務所のような店構えだったが、ここは入ると中は薄暗く昔の商店のつくり。ご主人が正座して対応してくれた。
「山城屋」のご主人の話では、ことわざなら文字の読め名ひとでも遊ぶことができると言って、「天井から目薬」とか「鳶が鷹を生む」とか実演してくれたけどすっかり忘れてしまっている。
道才かるたは結構高かったと思う。私は初めから高くても買うつもりでいたからすぐ払ったら、「冷やかしや、ちょっと聞いたからと来る人が多くて値段を言うと買わない人がほとんどなのに……」と喜ばれ、懐中札や、まだ道才かるたになっていない絵札のみの刷りだし(上の写真)をプレゼントされた。

◆季刊「銀花」1973春◆第13号より

黒裏字札にはことわざの初めの句を、続く句の意味は赤裏絵札に描いたものを1対として計62組。絵札には何文と銭高も書き込まれている。道才という由来も定かではないが、元来遊戯用のたとえかるたであったらしい。  


 
 
●賭博札
うんすんカルタはいろいろな「めくり札」に変化・発展して日本独自のデザインが加わり、して「賭博専用の札」も生まれた。これが流行ったために禁止令がでたのかもしれない。「大石天狗堂」「田村将軍堂」ではいろいろな賭博札があった。遊び方は全く不明。左上は、東映任侠映画で見たことがある。
    

    



  

 
  

●花合(花札)
「大石天狗堂」にはいろいろな花合があった。ここで「田村将軍堂」のことを聞く。事務所の様子が記憶に残っていないので、比較的現代風の普通の事務所だったのではないかと思う。
◆左:越後花
各札に銀色が使われ、見慣れた札と絵柄が違うものもある。

◆中:手刷り花
型紙を置いて、1枚づつ手で刷ったものと言われた。色がはみ出たり、ムラがあるのが何とも言えない。現在は作ってないので、在庫がなくなったら終わりとのこと。

◆右:懐中花
旅行中に遊ぶためのもの。日本人は小さくするのが得意?。「山城屋」でもらったものより、こちらの方がデザインも作りも神経が行き届いた感じ。大きさの比較のために鉛筆を置いてみた。


◆季刊「銀花」1973春◆第13号より
流行しためくりかるたを巧みに偽装した花合わせは賭博かるたの数を直接表面に描くのではなく、1月から12月まで、松、梅。桜、など、日本人の感覚に直感的に訴える四季の花鳥風月に託し、点数の高低は、短冊、動物、杯など風雅な付加物を描き添えて表した。
めくりかるたの4紋10枚を12種4枚にして、取り締まりの目をごまかしてあるが、明らかに天正かるたの血を引いたものだ。

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