函館市電







木の百人一首

●昭和47年
 12月27日

友人3人と北海道へ行く。一人は函館に帰るので同行というわけ。行きの列車は特急ゆうづる5号、上野発23時5分。20系客車をEF80がひく寝台列車。新しい(当時としては)電車寝台のモハ583系かと一人合点していた。寝台客車は初めての経験。いままで寝台列車に乗っても2両付いている座席車で寝てばかりだったから。上段は2本の布製のヒモが落ちないためにあるのだが、寝相が悪いので心配。
水戸で機関車がED75、1000番台に変わる。交直両用のEF80と違い、交流専用のED75は小さな身体に似合わず力が強い。レールを通過する音が軽快になったような気がする。


●12月28日

朝、中段の寝台はたたまれ、下段は座席に変わる。食堂車に行くのも初めてである。いつもは駅弁なので。車窓を眺めながらゆっくり食事をするのもいいものだ。しかし、洋朝食はまずかった。
青函連絡船は津軽丸。以前、津軽の帰りに乗ろうとして行けなった。船内は座席と平らなじゅうたんと両方用意してある。後部のデッキは出られるようになっていて、連絡船と国鉄のレールの接続方法が見ることができて面白い。津軽半島と函館との最短距離をとれば近いと思われるのに、両方のワンを結んでいるので4時間近くかかる(現在の海底トンネルは最短距離に掘られた)。しばらくして松前らしき街が見えてくる。函館は昼過ぎに着いた。駅近く清寿司で函館ではバッテラが名物だそうですすめられるままに食べたが、なるほどうまかった。それにしても函館は寿司屋が多い。
函館には市電が走っている。廃止が始まった東京都電の車両がそのままの姿で入っていると雑誌で読んだが、ビューゲルはZパンタに変わり、塗装も函館色になっていた。函館の昔の建物と市電との調和は絵になる。
倉敷の街にはがっかりしたが、函館は裏切らなかった。海港以来の建物が多数残っていて、それを今の人が上手に使っている。西洋風の建物、木造の家もパステルカラーの色を塗った独特の町並み。赤瀬川源平さんがペンキを削っていったら、変り球(なめると次々に色が変る飴)のように、年輪のように色が出てきたそうな。函館山の山小屋という喫茶店に行く。街中を見渡せるいい店。ここで函館に帰る友人と分かれる。


●12月29日

午前中は函館の街を再び歩いた。船見町で北海道だけと思われる木製の百人一首を見つけた。しかし冬だというのに雪がない。
12時15分発の急行ニセコで札幌へ。先頭に立つのはDD51。発車15分前に乗ったので車内は混んでいた。しかたなく床に雑誌を敷いて座り込む。客車は厳しい寒さに対応するため2重窓になっていた。大沼付近を通過するとき、白く凍った湖面と遠くに雪を抱いた駒ヶ岳の眺めは素晴らしかった。
長万部からDD51の重連となる。1年前まではデフレクターにスワローマークを付けた蒸機C62がここで重連で小樽まで走っていたはず。小樽からは電化されていてED76に変わる。横のホームに初の交流専用電車モハ711系が止まっていた。
札幌着7時58分。ラーメン横町で本場もんのサッポロラーメンを食す。東京で食べるラーメンとは外観も味も違っていて、うまかったのを覚えてる。
ここから札沼線(“さっしょう”と読む)に乗り換える。また、別の友人の実家に泊めてもらうため。キハ16とキハ25の編成。本州と同じ設計の車両なので寒い。東篠路で降りたら友人が迎えにきてくれていた。ここでやっと雪を見ることができた。


●12月30日

友人のお父さんが車で札幌駅まで送ってくれる。道が凍って車がお尻を振っていてもかなりのスピードで走る。恐かった。これが北海道流か。札幌発12時15分、釧路行急行に乗る。
札幌を発ったとき降り出した雪は帯広ではかなりの量だったが釧路ではさっぱり。やたら風だけが強くて、太陽で乾かされた砂が、海からの風で舞って目や口に入ってくる。橘旅館に止まる。日吉ミミが止まった部屋とのこと。


●12月31日

石川啄木の碑があり、昔遊郭だったという米町公園に向かう。着いたらなんのことはない、ただ釧路の港が見渡せるだけ。遊郭の建物は残っていなかった。副港市場にも行ったがこれもとりたてて書くようなことはない。























C58





C55









D51



C57


ここでもう一人の友人とは別行動で太平洋炭坑浜中町営軌道に向かう。

根室に着いたのは6時近くなっていた。根室は駅前でドラム缶で茹でたカニを売っていたりして、釧路に比べて静かで小じんまりした街だった。大野屋という室内に石炭ストーブがある旅館に泊まる。
テレビではレコード大賞と紅白歌合戦を流していた。レコード大賞最優秀歌唱賞は和田アキ子。


●昭和48年
 1月1日

納沙布岬での初日の出を見るバスに乗るために、5時に起床。根室は日本の最東端にあたるので、いちばん初めに初日の出を見ることになるのだそうだ。すぐ目の前に歯舞・色丹島がある。そこはソ連。本当に手が届く距離だ。横でタスキをかけた団体が「返せ〜〜!!」シュプレキコールを挙げている。北方領土って、こんなに近かったのか、あれなら返して欲しくなるなぁ、というのが実感。本当に近い。


●1月2日

弟子屈を抜けて、摩周湖の近くのできたばかりのユースに泊まる。暖房が効かない。近くの牧場の搾り立ての牛乳を飲む。濃くてうまい。朝、摩周湖に行くと言ってきかないグループがいた。行っても1メートル以上の雪で湖は見えないと言われても、卒業記念だから行くと言って出て行った。ここで友人は仕事が始まるので帰り、ひとりだけの旅になる。


●1月3日

網走へ。刑務所へも歩いて行ってみる。前までいったけれど、止まって見ていると怒られそう。ときどきC58やD51の貨物列車が通る。
名寄に向かう。雪が深くなってきた。
中湧別に泊まる。正月で一人しか泊まっていない。板さんも返ってしまっているのでっ、と佐呂間湖の名産ホタテの刺身に、お銚子を1本、女将さんが気を効かせて付けてくれた。下戸だけど心遣いに感謝して飲む。誰も泊まってないから、好きにやってくださいと言われる。


●1月4日

ずっと雪は少なかったんだけど、翌日から雪が降り続けた。うん、北海道は雪があった方がいいと思っていたら、列車が遅れ始めた。こうなると接続列車が気掛りで雪を恨めしく思う。勝手なものだ。
名寄に向かう。雪が深くなってきた。名寄駅に着くと向こうから水掻スポーク動輪を持つ蒸機C55が走ってくる。凍った雪が付着していて、黒い蒸機機関車とのコントラストが面白い。稚内、旭川を出たC57C55がちょうど名寄で出会う。
稚内へ向かう。雪は増々降り続き、どんどん列車は遅れる。夜近く列車はやっと稚内へ到着。疲れていたので、漁師のおばちゃんみたいな格好をした人の「宿は?」の声に素直に付いていった。


●1月5日

船宿みたいな殺風景な部屋で、薪をドンドン入れろと言われたので、遠慮なく入れる。翌日、礼文島へ渡ろうとしたら、海が荒れ気味だから「いつ帰れるかわからないよっ」といわれてとりやめ。街はひっそりしている。
よし、蒸機のたくさんいる夕張に行こう。正月の参賀日も明け、列車も故郷から仕事場に向かう人達で混でくる。向かい合って座った人の手が黄色い。正月にみかんばかり食べていたらこうなったんだそうだ


●1月6日

岩見沢で泊まる。炭坑地帯であるので蒸機がひっきりなしに走っている。ずっと旅館では魚ばかり。肉や油物が食べたくなる。旅館で布団に入っていても、雪が音を吸収して、静かな夜に蒸機の汽笛が悲しく響く。このあたりはさすがに蒸機が次々に走る。夕張は石炭列車をひいたD51のオンパレード。戦時型だの、なめくじだの、いろいろなD51が来る。入れ替えには9600がいた。


●1月7日

室蘭本線はC57の旅客列車が結構来た。列車の待ち合せ時間があったので、映画館へ。寅さんを見る。特急「おおぞら」で函館へ。もう車内は超満員、皆連絡船で都会へ帰るのだろう。連絡船に乗ったのは深夜。寝る。朝は青森に着く。


●1月8日

青函連絡線と大阪へ行くロングラン特急「白鳥」がすぐ接続する。長岡へ昼着く。今度は越後交通栃尾線に向かう。
直江津を経由して新潟色の旧スカ形70系で長野へ向かう。実家に正月の挨拶をしつつ泊まり、次の日は、さあ仕事だ。