ながでん初代社長・神津藤平のおと
明治4年北佐久郡志賀村(現佐久市)生まれ


長野電鉄発行
「四十年のあゆみ」
須坂・権堂間開通当時の新聞記事(信毎記事)より

※写真は私が撮影したものではありません。雑誌や社史から使わせていただきました。














残念ながら2002年3月末で木島線が廃止されてしまったが、長く開通時の路線を失うことなく長野電鉄が市街地の地下鉄化、CTC制御などの近代化をすすめているのは、初代社長神津藤平の力が大きい。

地方鉄道のほとんどは地元の資産家がオーナー形のトップになることが多いのだが、神津藤平は当時の関連関連会社であった佐久鉄道の相談役から推された、ある意味では変わり種といえる。慶應義塾で福沢諭吉に学び、卒業後東京電灯に入社しているところから、河東鉄道は開業当初から電化を念頭において計画されていた。電化においても、当時の地方鉄道には豪華すぎると言われた頑丈な架線柱を採用し、発電所も自前、長野電気鉄道も当時の始発駅であった権堂〜信濃吉田も地方鉄道では珍しく初めから複線で開業している。




















長野電鉄発行
「四十年のあゆみ」
創立40周年を迎えてより

最晩年に近い写真?



信濃毎日新聞発行
「信州の鉄道物語」より
執務中の神津藤平社長


長野電鉄発行
「長野電鉄60年のあゆみ」
歴代社長より

オーナー形トップではなかかったために、客観的な近代的な経営手腕がふるえたのかもしれない。また、オーナー形トップの常として役員が血縁者で引き継がれることが多いが、彼はそんなことはなかった。

阪急の創業者、小林久三とは慶應義塾で一緒に学んだためか対抗意識はあったようで、特急ロマンスカーの所用時間を、阪急の特急電車と距離が同じなら、と同じにした。遊園地も湯田中に建設したが、こちらは昭和16年に廃止している。最大は志賀高原開発で、ホテル、登山ルート、スキー場を作り、志賀高原を全国的な観光地にまで育てあげた。

私が持っている少ない神津藤平の写真を見ても洋服姿ばかりで着物を来ているものはないのは珍しい。



信濃毎日新聞発行「信州の鉄道物語」より
長野電気鉄道の開業式当日の役員と来賓の記念撮影(大正15年6月28日、権堂駅で)

多分、中央左のステッキだけ持っているのが神津社長?
後ろに写っているのはデハ101かデハ102だと思われる。