モハ100形は、大正15年6月に長野電気鉄道が須坂−権堂間の開業に備えて汽車会社(現川崎車両)東京支店で製造した半鋼製車。乗務員の扉はなく、運転台はH棒仕切の開放式。運転席は中央。窓はすべて落し窓。パンタはWH(ウエスチングハウス)系の大きなもの。台車は汽車会社のBW−A形(ボールドウィンタイプ)で床下にトラス棒付きの厳めしいスタイルだった。市街地立体化まで、昭和33年天井の鋼板化、35年プレス扉で自動化などの改造を受け元気に働いた。
モハニ130形はモハ100形と同様、大正15年6月長野電気鉄道が須坂−権堂間の開業に備えて汽車会社東京支店で製造。同年、河東鉄道でも同形を2両汽車会社に注文し、先に製造された長野電気鉄道の車と交換したので旧所属は河東鉄道なっている。荷物室が下り側に設けられているのが相違点で、荷物室の側窓は客室の窓より50mm狭い。その他はモハ100形と同じ。こちらも天井の鋼板化、プレス扉で自動化工事を受け、市街地立体化まで元気に働いた。
昭和28年の形式見直しでモハ100系に統一、10番台は荷物室を持っている車両に与えられていたが、1000系の荷物室を客室に改造した車両を10番台としたため、新たに荷物室を持っている車両は30番台になった。
河東鉄道発注のの同形2両はデハニ203・204となり、制御方式をHLからHBに変更したため別形式のモハニ531・532に。従って外観は100系と500系とはほとんど同じ。
モハ102は上田交通に譲渡され、廃車のあと長野電鉄に戻り小布施の「ながてん電車の広場」に製造当時のデハニ201の姿で展示保存されていたが、廃線になった屋代線信濃川田駅に放置されている。 |